結論から言えば――、
『想像力は、「受け取る力」と「設計する力」が往復してはじめて育つものだから』
と言えるかもしれない。
つまり、この往復が欠けると、想像力は途中で止まってしまうと考えられる。
本記事では、上記の理由を順に分解していく。
想像力の正体:『補完』と『予測』
前提として、小説における想像力は大きく分けて二つの働きから成り立っていると予想される。
- 補完:書かれていない情報を埋める力
小説では情景、感情、背景、行間など──
文章に明示されていない部分を、自分なりに立ち上げる働きを要求する。 - 予測:意味を組み立てて考察する力
具体的には『次に何が起こるのか』『この配置はどんな意味を持つのか』を文脈や構造から読み取り、先を見通そうとする働きが要求される。
上記の二つは似ているようで、使われる場面が異なる。つまり「読む」ときは『補完』から『予測』を導き、「書く」ときは『予測』から『補完』して作り出していると考えられる。
読むだけでは足りない理由
――「補完する側」に偏るから
筆者の経験上、読むという行為をするときには主に『補完』を使っていたと思われる。
具体的には――
・登場人物がどんな表情なのか?
・なぜ沈黙するのか?
・この一文の意図は何か?
こうした問いを立てながら読むことで、他人が設計した余白を埋める訓練をしていたと回想する。
しかし同時に、「どこまで削るか」「どこに内容を盛り込むのか」という設計側の感覚は書いてみないと育ちにくい。
そのため、想像する力はあるのに、いざ書くと説明が多くなるという状態に陥りやすくなる。これは読むだけでは、想像力はどうしても 受け身の技能 に留まってしまっていたに他ならない。
書くだけでは足りない理由
――「設計する側」に偏るから
一方で、書く行為では『予測』を主に使用する。具体的には――
・読者はどう感じるか?
・書かなくても伝わるか?
・この順番で意味は立ち上がるか?
これは間違いなく想像力の設計訓練だと言えるだろう。
一方で、読む経験が不足していると、設計が独りよがりになり読者がどう補完するかが見えてこない。その結果、「伝わっているつもり」で止まってしまうという問題が起こり得る。
つまり書くだけでも、想像力は 自己完結の幻想 になりやすいと言えるだろう。
往復が必要な理由
――「他者の想像」と「自分の設計」を照合するため
想像力が本当に育つのは、次のような往復運動が起きたときかもしれない。
- 読む:他者の設計を体験する
- 書く:自分の設計を試す
- 再読する:その差異に気づく
この往復によって、想像しやすかったシーンや想像できなかった心情。さらには「なぜこの一文が効いているのか」といった感覚が言語化されていく。
つまり想像力は、漠然とした感覚のままでは定着するものではなく、思考として整理されたとき、はじめて力になる モノだと言える。
筆者にとっての想像力
筆者にとって想像力とは――
読者としての自分と、 作者としての自分が、 同じ文章を別の立場から見る力
だと考えている。そのため、読者として感じた違和感と、作者として仕込んだつもりの意図のズレに気づいたとき、想像力が一段階、深くなると考えている。
つまり、読むだけでは補完はできるが、設計ができない。書くだけでは設計はできるが、補完され方が見えない、となり得る。
だからこそ必要なのが、どちらか一方に偏るのではなく――
読む → 書く → 読む
という循環が重要だと言える。
まとめ
今回は、小説における想像力を筆者なりに深掘りをしてみた。想像力は、他者の余白を埋めることで磨かれ、自分の余白を設計することで定着する。
そのため、その往復がなければ想像力は育ちきらないのではないかと考察する。
では最後に――
『みなさんも物語の中で、想像力の源泉を見つけてみてはいかがだろうか』
きっと語られるのではなく、体験として示されることになるかもしれない。
以上

