「面白かった」物語だったはずなのに、数日後には筋も登場人物も思い出せない。
という経験をしたことはないだろうか?
正直、私にもある。しかし、それは単なる記憶力の問題として片付けて良いのだろうか。面白いのに心に残らない物語というのは、どういった事象なのだろうか。
本記事では、面白いのに心に残らない物語について、筆者が考える面白さの種類から考えていきたい。
物語の面白さは2種類ある
物語の「面白さ」には、大きく分けて2種類あると考えられる。本項では「消費される面白さ」と、「刻まれる面白さ」の特徴を考えていく。
消費される面白さ
消費される物語の正体は、安心感のあるストーリーにあると考えられる。たとえば、どん底から這い上がる物語が挙げられる。これは、読んでいる最中に強い引力が働き、先が気になってページをめくる――そうした体験を生み出す面白さである。
しかしながら、謎、伏線、キャラクター性など物語の根幹となる要素が抜け落ちているとしたら、どこか既視感の面白い物語として成立しているに留まり、物語の推進力はあるものの、読者に残る粘着力がないと思われる。
そのため、その種の物語はストーリーが終わると同時に役目を終え、読後に残る「面白さ」は情報の波にさらわれてしまう。
刻まれる面白さ
一方、「刻まれる面白さ」は読書中よりもむしろ読み終えた後に姿を現す。たとえば、ある登場人物の決断が頭を離れない、セリフや展開が今でも思い出せる、情景描写が現実と重なって見えてくるなど、何年も経ってもふとした瞬間に思い出す――そうした体験が含まれている。この種の面白さは、物語が読み手の記憶や価値観に深く刻まれた時にのみ生まれると思われる。
しかしながら、筆者は上記の2つは対立するものではなく、どちらも両立すべき事柄だと考えている。それは、楽しさと深さの両立こそが面白さだと推察しているからに他ならない。
心に残る物語とは何か?
楽しかったのに、具体的には何も覚えていないということがある。そんな経験も大切だし、楽しいことも忘れることも、むしろ心や体に良いのではないかと思われる。
では、心に残るとはどのようなことだろうか?
前項で述べた『消費される物語』と『刻まれる物語』。たとえば、どちらか一方に偏っていた場合はどうだろうか。
『消費される物語』の純度100%の場合
そんな物語を読んだ時、読後に残るのは物語の中身ではなく、端的な言葉で表される感情語になるのかもしれない。
たとえば、キャラクター性のない成り上がりストーリーや胸糞ストーリー、これらは読後に「爽快」や「不快」という情報で処理されて、考える余地を与えてくれない。そのため、物語としての記憶ではなく、自分が抱いた感情の断片だけが残っているということになるのではないだろうか。
『刻まれる物語』の純度100%の場合
このタイプの物語は、とにかく重たい。まるで深海のように読書中に心情を深く抉ってくるし、キャラクターの灰汁も強い、そんな感じになっているのではないだろうか?
たとえば、重層的な伏線が貼られているグロテスクなストーリーなんかが挙げられるかもしれない。すると、考える余地があり過ぎて、心に刻印のように刻まれるがために、似た出来事が起こるだけですぐさま思い出してしまう。
しかしながら、筆者はこのタイプの物語があまり好きではない。理由は単純に刻まれ過ぎて、事あるごとに思い出しては疲れてしまうからだ。
つまり『消費される物語』と『刻まれる物語』は、読者の好みにはよるものの、あらゆるグラデーションがあって良いと思っている。すると、考える余地を残しながら、感情の断片を残していくような、適度に心に残る物語になるのではないかと考えている。
まとめ
今回は、面白いのに心に残らない物語について、面白さの種類と、筆者の考察を述べていった。
心に残る物語は、『消費される物語』と『刻まれる物語』のグラデーションで決まる。ただただ心に残せば良いということではない。
適度に考える余地を残した物語こそが、本当に心に残る物語なのかもしれない。
以上
