みなさんは悲しい映画や、展開が見えてくる物語でも、自然と感動してしまう経験はないだろうか?
どうやら人は、太古の昔から物語を語り、聞き、そして涙を流してきたらしい。それこそ焚き火を囲む神話の時代から、現代のストリーミングサービスまで、形は変われど物語への欲求は変わらない。では、なぜ私たちは「作り話」に心を動かされるのだろうか。
今回は、そんな問いを考えていきたい。
感情移入——それは、感動への入り口
物語が感動を生む最大の理由は、感情移入にある。読者や観客は、主人公の視点を借りて、自分では経験し得ない人生を体験する。
これは単なる「共感」ではない。知らぬ間に、自分がその物語の中に引き込まれていく感覚——それが感情移入だ。そして、いつしか感動へと至る。
本項では感動に至る経緯を「安全な感情体験」、「意味の単純化」、そして「自分の物語との共鳴」を順番に確認していく。
「安全な感情体験」としての物語
現実の悲しみや恐怖は、ときに人を傷つける。しかし物語の中では、「これはフィクションだ」という無意識の認識を張りながら、同時に本物の感情を経験できる。
古代の哲学者アリストテレスは、それを「カタルシス」と呼んだ。感情を安全に解放し、浄化する場として物語は機能する。だからこそ、人は悲しい映画を好んで見るという逆説が生まれると考えられる。
混沌とした「意味」からの脱出
感動には、もう一つの重要な要素がある。それは意味の単純化だ。現実ではしばしば無秩序で、理不尽で、複数の意味や思惑が混在しているケースがある。しかし物語では、ある一人(もしくは特定の数人)の視点の思惑で描かれていることが多い。
そして、主人公が苦しみを乗り越えるとき、読者は「報われる」のか「報われない」のか、「変われる」のか「変われない」のか、という二者択一の意味を予想する。この「意味の単純化」に至る過程こそが、感動に至る正体だと推察される。
感動は「自分の物語」との共鳴
感動とは物語と記憶の共鳴かもしれない。物語の中の出来事に涙するとき、どこかで自分自身の経験と重ねて、結末を予測する。そして、その結末がたとえ予定調和だったとしても、いつの間にか涙を流している、心が震えているという状態に陥っている。
つまり、物語は自分自身を映す鏡であり、そこに映るのは他者の人生でありながら、同時に自分自身が求めているもの、もしくは避けたい現実なのかもしれない。
私は感動する物語が嫌いだ
ここまで、つらつらと広く言われることがらを述べてきたが、実は私は感動する物語は嫌いだ。特に、あらすじやタイトルで感動を予見できる物語はほとんど見ない。
しかし、それは私が冷たい人間だからではない。むしろ、あらすじやタイトルだけで、見れば涙を流してしまうことまで予見できるからだ。
涙を流すことを否定している訳ではない。ただ、心が大きく揺さぶられて、現実では起こって欲しくないと願うことが辛いからに他ならない。
つまり、感動を生む物語は、単なる娯楽という意味には留まらない。人が、私自身が、自分を理解するための道具だと、知らぬ間に知っていたからかもしれない。
それでも、私たちは物語を通じて泣き、笑い、そして「自分はどう生きるか」を問い続ける。その営みは、おそらくこれからもずっと変わらないのだろう。
まとめ
今回は、物語が感動を生む理由を紐解いて、筆者の気持ちを言葉にした。
感動する物語は、世の中に溢れている。しかし、どれを手に取るのか、もしくは手に取らないのかは、みなさん次第である。
私も、勇気を出して「全米が涙を流した」物語を、いつかは見てやろうと、この記事を書きながら思ったしだいである。
以上
